2016年7月25日月曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(11)ポルト Porto ④ ボルサ宮とサン・フランシスコ教会

6月11日、
美しい本屋「レロ・イ・イルマオン」の後はポルトの街を抜けて
ボルサ宮に向かいました。

ポルトの街  2016.6.11  午前10時40分


坂道が多く、情緒溢れるポルト


ボルサ宮の前にはエンリケ航海王子の像が建っています。

ボルサ宮・・・分かりづらいですが、手前がエンリケ航海王子の像

ボルサ宮 Palacio da Bolsa は
火災で焼失したサン・フランシスコ修道院の跡地に
1834年に建てられたポルト商業組合の建物です。
つい最近まで証券取引所として使われていました。

入場すると初めに鉄線とガラスの美しい天井のパティオを見学。
天井にはポルトと関係の深い国々とポルトガルの紋章が飾られています。

ボルサ宮のパティオ~「紋章の間」

パティオの床はポンペイのグレコ・ローマンスタイルにならったセラミックモザイクです。

パティオの床のモザイク

商業組合の建物が宮殿ではないのに「ボルサ宮」と呼ばれるのは
ご紹介する部屋の豪華さや
「アラブの間」の華麗さ、エキゾチックさのためかもしれません。
(真偽のほどは分かりませんが・・・)

ボルサ宮内部

「裁判の間」・・壁いっぱいに市民の商いの場面が描かれています


凝った天井

次は
ボルサ宮一番の見どころと言える「アラブの間 Salao Arabe 」です。

スペインのアルハンブラ宮殿を模した「アラブの間」は、
当時のポルトの経済力を誇示するために1862年から18年の歳月をかけて造られました。

「アラブの間」・・奥にピアノが置いてあります

良質な木と漆喰で作られた極彩色の華麗なアラベスク模様が
壁から天井まで埋め尽くしています。

「アラブの間」は現在も国内外からの主賓のレセプションや
ピアノコンテスト、コンサートに利用されています。



金色の部分は金箔が使われています


ポルト見学最後のサン・フランシスコ教会 Igreja de Sao Francisco は
14世紀初めに建てられた修道院付属の教会です。 

サン・フランシスコ教会

教会入り口上にあるアッシジのサン・フランシスコの像とバラ窓

当初は簡素なゴシック様式の教会だったそうですが、
17世紀にバロック様式に改装され、
教会内部は金泥細工の装飾で覆われた豪華なものとなりました。
その金箔には
当時植民地だったブラジルから運ばれた300~400Kgもの金が使われたそうです。

内部は撮影禁止でしたので、
下の写真はパンフレットからのものです。

有名な「エッサイの樹」・・・キリストの家系図
ダビデ王の父エッサイからイエス・キリストまでを1本の樹に表したもの


次回は
バスで1時間ほどの所にある
おとぎの国のような運河の街アヴェイロです。


2016年7月24日日曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(10)ポルト Porto ③ 美しい本屋「レロ・イ・イルマオン」

6月11日ガイア地区の次は、
ドウロ川を渡って旧市街に行き、
世界で最も美しい本屋の一つと言われる書店「レロ・イ・イルマオン」を訪れました。
この書店は
2008年イギリスのガーディアン紙による
「The world's 10 best book shops」に選ばれたそうです。

美しい本屋 「レロ・イ・イルマオン」の外観は工事中でした・・

開店10時の少し前に行きましたが、続々と人が集まって来ます。
書店の前には美男の店員さんが、
入店料3ユーロを受け取ったり、入店者の整理をしています。

添乗員さんが言っていましたように
ポルトガルは
この店員さん始め、地元のガイドさんも美男子ぞろいでした。。。

イケメンの店員さん・・・「レロ・イ・イルマオン」

開店前の店内を撮らせてもらいました。↓

開店前のレロ・イ・イルマオン・・・中央にらせん階段があります

店内は教会のような美術館のような不思議な世界です。
ここは映画「ハリー・ポッター」のロケ地でもあり、
「ハリー・ポッター」の原作者のJ.K.ローリングは
英語教師として2年間ポルトに滞在していたそうです。

2階から見た1階の売り場とらせん階段


らせん階段

入り口近くの1階の売り場


2階の売り場


お店の雰囲気と合っているステンドグラス



天井のステンドグラスとランプ






古いレジスター

専門書以外にもいろいろな分野の本があります



店内を見るだけのつもりでしたが、
やはり記念に本を買いたくなり、ポルトの写真集を購入してきました。

お土産に買ってきた PORT の本

表紙はPORTという文字が切り抜きになっています


写真だけの本で
ポルトの街やアズレージョなどがたくさん載っています


次回は
華麗なアラベスク模様の「アラブの間」があるボルサ宮に行きます。


2016年7月22日金曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(9)ポルト Porto ② ガイア地区

6月11日朝8時30分にポルトのホテルを出発して
ドウロ川を挟んで旧市街の対岸にあるヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア(ガイア地区)に行きました。

ここの小高い丘にノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院 Mosteiro da N. Sr. do Pilar があり、
その展望台から美しい旧市街の街並みが一望できます。
旧市街は1996年「ポルト歴史地区」として世界遺産に登録されています。

ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院 2016.6.11 朝8時57分

修道院のすぐ下にドン・ルイス1世橋が架かっていますが、
この橋は19世紀に設置された2階建て構造の鉄橋で
1階は車道と歩道、2階は鉄道と歩道となっています。
この橋はエッフェル塔を造ったエッフェルの弟子が設計しました。


修道院の展望台から見た旧市街(右上)、ドウロ川、
手前のドン・ルイス1世橋を走るのはメトロ

ポルトと言えば、ポートワインですが、
ポートワインが出来た経緯をポルトの歴史と共に書いてみたいと思います。

◆ 

ローマ帝国時代、
ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアはカレ Cale と呼ばれる洲であり、
ドウロ川の河口の街が港 Portus の役割をもっていたことから、
ポルトゥス・カレと呼ばれ、それがポルトガルの語源となった。
当時からポルトは港町として栄えていた。

15世紀まで世界の中心は地中海であり、大西洋に面したポルトガルは
地中海貿易から取り残されたヨーロッパの辺境にすぎなかった。

15世紀初頭、
イスラム教徒に支配されていたイベリア半島(スペイン、ポルトガル)では
キリスト教諸国によるレコンキスタ(国土回復運動)が進んでいたが、
北アフリカのイスラム勢力が
ジブラルタル海峡を通じてイベリア半島のイスラム諸国を援助していたため、
なかなか打ち破ることができなかった。

Wikipediaより・・・中央下赤い小さい部分がセウタ

そこでポルトガル国王ジョアン1世とその息子エンリケは
拠店都市であり、造船基地でもあったポルトで大船団を組織し、
北アフリカとイベリア半島のイスラム勢力を分断するために
1415年、北アフリカのセウタを攻略。
(セウタはモロッコの一部で、現在スペインの飛地領)

アフリカに渡ったエンリケは海外進出を加速し、
地中海貿易をあきらめた代わりに大西洋へと漕ぎ出し、
アジア・アフリカ進出を開始。
1488年バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達。
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達し、ポルトガルはインド航路を独占した。

アジアから直接運ばれた香辛料がポルトガルに莫大な富をもたらし、
夢の大航海時代へと突入する。

旧市街の対岸にあるポートワイン工場(左側オレンジの屋根の建物)
昔は目の前のドウロ川に停泊している船で出荷していた

こうした航海を支えたのがワイン。
外洋航海に水は欠かせないが、熱帯地方の場合、水は1か月ほどで腐り、
そのために水の代わりにアルコール飲料を持ち込み、
水→ビール→ワインというように
アルコール度数の低い順に消費したが、ワインもせいぜいもって3か月。
アルコール度数の高いブランデーは腐らないが水の代わりに飲むわけにもいかず、
ワインにブランデーを入れた酒精強化ワインを積み込んでいった。

17世紀にポルトの酒精強化ワイン=ポートワインがイギリスで大ヒットすると
ポルトガルの主要輸出品に成長し、
のちに大航海時代の勢いが衰えたポルトガルの財政を支えた。

ポートワイン 2016.6.10 ポルトのホテルの夕食にて


以上がポートワインが生まれたいきさつです。


次回は

世界で最も美しい本屋の一つと言われる書店「レロ・イ・イルマオン」です。



2016年7月20日水曜日

「海の日」の連休

7月18日の「海の日」を含む三連休の前日から休暇を取って
次男一家が蓼科にやって来ました。

1週間後に3歳の誕生日を迎える孫娘のお誕生日祝いをしましたが、
この1年の子供の成長ぶりは著しいものがあります。
こちらは年々衰えていく自分に嘆いていますが、
日に日に大きくなって知恵がついてくる孫の変化が楽しみです。

次男の長女、3歳のお誕生日祝い  

次男の次女は来月1歳です。
まだまだママから離れられませんが、
ランディとは仲良しです^^

「ランディ~」と呼んでいるよう・・・次男の次女

今回は2日目、3日目のお天気がイマイチでしたが、
次男一家は
夫の畑に行ったり、近くの会員制リゾートホテルの温水プールに行ったり
それなりに楽しめたようです。

夫の畑でラディッシュを採り、喜ぶ孫娘 2016.7.16

夜はもちろんBBQ。
次男がネットで青森産の大きなホタテ貝をたくさん購入してくれました。
そのうち5個はお刺身にして頂きましたが、甘くてとても美味しいホタテ貝でした。

残りの10個は2晩バーベキューで頂きました。
これも文句なしの美味しさです。

とても大きなホタテ貝

BBQの後は花火で楽しみました。
山荘は蚊がいないので助かります。


花火は楽しいね

孫たちは
家の外でも中でもランディと仲良しです。

「ランディ、いい子、いい子」(孫娘)、「眠たいんですけど・・・」(ランディ)

そして上の孫娘は
いつも通りよくお手伝いをしてくれます。
私がお皿洗いを始めると、
早速踏み台代わりの椅子とエプロンを持ってきて
お手伝いをします。

お皿洗いも上手になりました

蓼科滞在最後の日18日はやっと晴天になり、
ブルーベリー狩りに行きました。
とても暑くて私やお嫁さん、孫たちは早々にブルーベリー畑の小屋で休みましたが、
夫と次男はせっせとブルーベリーを採っていました。

「ブルーベリーをたくさん採ったよ~」 2016.7.18
 
結局1.4Kg収穫し、タッパーに入る分だけ次男たちのお土産とし、
残りは私達夫婦が生のまま食べたり、ジャムにしました。



900gをジャムにしましたが、
市販の400㏄のジャムのビン2ビンと小さなジャムのビン1つできました。

400㏄のジャムのビンに入れたブルーベリージャム

ジャムはパンに塗ったり、ヨーグルトにのせて頂いていますが、
酸味が少なくとても美味です。
(今回お砂糖はブルーベリーの30%にしました)

ヨーグルトにのせたブルーベリージャム




2016年7月15日金曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(8)ポルト Porto ① サン・ベント駅

6月10日、ギマランエスの後は
ツアー用のバスでポルトへ向かい、
17時30分頃にサン・ベント駅に着きました。

サン・ベント駅

この駅はポルト Port の中心に位置し、町の玄関口です。
20世紀の初めに修道院跡地に建てられたもので、
ホールの壁を飾るジョルジェ・コラソ作のアズレージョが有名です。


駅のホール全体がアズレージョです

アズレージョの題材は
エンリケ航海王子による北アフリカのセウタ攻略や
ジョアン1世のポルトガル入りなど
ポルトガルにまつわる歴史的な出来事です。

ジョアン1世のポルトガル入り・・・タイルに細かい絵が描かれています

ポルトガルでは釉薬をかけて焼いたタイルをアズレージョといい、
柄があっても無くても手作り品でも工業製品でもアズレージョです。

セウタ攻略時のエンリケ航海王子

その柄や色は時代によって変化しています。

アズレージョという言葉はアラビア語に由来し、
「つるりとした、磨かれた」などの形容詞が元だったようです。

イベリア半島(スペインとポルトガル)は
ヨーロッパでも装飾タイルの普及が早かった地域です。
それは8世紀からイスラム教徒の支配が始まり、
イスラムの影響が大きかったためです。



北アフリカでは古くから釉薬をかけたセラミックモザイクが作られており、
その技術が北アフリカのイスラム教徒の芸術家によってイベリア半島にもたらされました。
スペインのマラガ、セビーリャ、バレンシア、タラベラが
イベリア半島における生産拠点でした。

アズレージョはそのモザイクが発展したものと言えます。

15世紀前半から少量のアズレージョがポルトガルにも入ってきますが、
本格的にタイルをスペインから輸入するのは
15世紀終わり頃です。

約15㎝角のタイル1枚1枚に模様を描き焼きます
その後、組み合わせて1枚の大きな絵に仕上げます

16世紀に入り、
アラブ人によってスペインにもたらされた
「ムデハル様式」と呼ばれる幾何学模様などが特徴のタイルが
ポルトガルに大量に輸入され、
宮殿、教会、修道院などの壁に使われるようになりました。

その頃に「アズレージョ」という言葉もスペインから伝わりました。

多色のものもあります


駅を出た歩道にもアズレージョが・・・
タイル4枚で1つの図柄になっています


次回はポルト②です。
ガイア地区に行きます。
ポートワインについても書きたいと思っています。

アズレージョについては
これからも関連の場所で書いていきたいと思います。