2016年10月20日木曜日

別荘地の紅葉

9月は雨ばかり、
10月は寒かったり、汗ばむような暑さになったりで
落ち着かない気候が続きます。

山荘の周辺は紅葉が進み、
既に葉が全て散ってしまって寒そうに裸の枝を青空に伸ばしている木もあります。

   青空に映える紅葉したモミジ 2016.10.20

早々に赤く色づいて散ってしまったモミジの隣で
今を盛りに真っ赤に染まっているモミジもあります。

黄葉した木が沢山あります・・・別荘地

別荘地全体で言えば
赤い葉より黄色い葉が圧倒的に多く、
山は黄色く、オレンジっぽく染まっていき、
ところどころでアクセントのように真っ赤な紅葉が見られます。

色を失っていく木々の中で赤が目立ちます

今年は9月の長雨のせいか、
紅葉があまり綺麗でないような気がしてなりません。



山の紅葉は上から段々下りてきていますが、
カラマツは例年のように綺麗な黄金色に染まるのでしょうか・・・




我が家の裏庭の木

枯れ葉の中を歩いていますと、
長い冬が近づいて来る寂しさを感じます。

それだからこそ
この美しい紅葉の季節を一日でも多く楽しみたいと思っています。

別荘地 2016.10.20

毎日のランディとの散歩では
黄色く顔が染まりそうな山の中を歩いていますが、
そんな黄色い風景をガラスのペンダントにしてみました。

環(わ)のペンダント 直径46㎜、厚さ1㎜、重さ14g

様々な色の板ガラスをカットして
電気炉で焼いて作ります。


リング状のガラスのトップに
国産牛革の丸ひもを使用し、
長さを自由にできるようにしました。

ガラスはぽったりとした存在感がありますので、
これからの季節、セーターの上にもぴったりです。
留め金具もなく、
気軽にお洒落ができるペンダントです。






2016年10月8日土曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(21)最終回 リスボン Lisboa ④ とファドレストラン

6月13日午後、
シントラを後にしてリスボンに戻ってきました。

リスボンでは夕食まで自由行動となりましたので、
私達夫婦はケーブルカーに乗ることにしました。

リスボンの街 2016.6.13

街を歩いてお土産物屋さんを覗きながらケーブルカーの駅まで行きましたが、
ケーブルカーに乗っている距離はほんの短いものです。
乗る所から降りる所が見えるくらいです。

しかしながら、
この急勾配の上の街に行くにはケーブルカーは必要なものだと思いました。

ケーブルカーの上の駅から乗る乗客

ケーブルカーで上った展望台からはリスボンの街が見渡せます。

曇り空の下のリズボン~ケーブルカーで上った街から見た景色

またケーブルカーに乗って下の街に戻り、
買い物をしながらぶらぶら歩いてホテルに帰りました。

名残惜しいリスボンの街 

その後、夜7時45分に、
私達のツアーはホテルのロビーで集合して、
ファドを聴きながらの夕食へと出かけました。

ファドのレストラン~ステンドグラスが綺麗です

私達が行ったファドのレストランは老舗らしく、
往年の名歌手アマリア・ロドリゲスが来店した様子などの写真が
沢山飾ってありました。

ファド Fad は
「運命」「宿命」という意味を持ち、
その発祥にはいろいろな説があります。

その中の一つは、
ポルトガルの植民地だったブラジルのサトウキビ畑で働いていた
沢山のアフリカ人の奴隷達が歌っていた悲哀の歌であり、
それが金などの産物と一緒にリスボンにもたらされたというものです。

ファドは
社会の底辺にいた貧しい人たちの音楽であり、
リスボンのアルファマ地区など下町には
船乗りや売春婦、失業者達などが多く住んでおり、
こうした人達が
日々の辛い生活の中でひと時の娯楽としてファドを聴き、歌っていました。

そして
舞台音楽やいろいろな階級の音楽に影響され、
踊りや打楽器などの伴奏が消え、
歌の叙情的な部分だけが残りました。

その後、
貴族にも好まれるようになり、劇場で歌われるまでになりました。
アマリア・ロドリゲス(1920年7月23日-1999年10月6日)の出現で
ファドは頂点を迎えます。

この旅行記の「コインブラ」の記事でも触れましたが、
リスボンのファディスタ(ファドの歌い手)は大半が女性で、
女性の心情を歌った物悲しい曲が多いそうです。

ファドを歌う歌手~リスボンのレストラン

私達は
お食事をしながらファドを聴きましたが、
ポルトガルギターとクラシックギターを伴奏に
若い男性1人と女性2人が順番に歌ってくれました。

生の歌声は声量があり、低音で切々と歌うその歌声に
私は食事をとるのも忘れて聴き惚れてしまいました。

このレストランでは12時過ぎからメインの歌い手が登場するらしいので、
私達が聴いた歌手たちは前座のようなものかも知れませんが、
とても素晴らしいものでした。

ファドのレストランのアズレージョ

私はファドについてはあまり知識がなかったのですが、
このレストランで
ファドの女王と呼ばれるアマリア・ロドリゲスのCDを販売しているというので
是非購入いたいと思い、買ってきました。

帰国して早速聴きましたが、
当初は高音で華奢な歌声に戸惑いました。

でも聴く度にまた聴きたいと思うのです。
それが人の心を掴むということなのかな、と思いました。
それからは度々CDをかけています。

アマリア・ロドリゲスのCDのジャケット・・とても美しい人です

ファドのレストランを出ると
翌日は
いよいよ帰国の日となりました。

名残惜しいリスボン、ポルトガルでした。


ヨーロッパ最西端の国であるポルトガルは
かつては並みいる大国に先駆けて大航海時代を切り開き、
アジア、アフリカ、南米に多くの植民地を持っていました。
しかし、
国力を超えて事業を拡大したことなどから、
やがてスペイン、イギリス、オランダに海洋交易の覇権を握られてしまいました。

買ってきたアズレージョ(ハンドペイント)~裏に作家のサインがあります

「運命」という意味を持つファドの調べがしっくりくる国でありますし、
レストランやお店で出会った人達の
穏やかでシャイな感じが印象的な国でした。

歴史的に日本とも繋がりが深く、
海に面しているので海産物が多いことなど、
食事の面でも日本人には馴染みやすい国です。

名物のタコやホタテの缶詰~安くて美味しいです

またポルトガルで一番人気のあるのはサッカーですので、
ニュースでトップに取り上げられるのはいつもサッカーのことだとか・・・・

そして時間におおらかなお国柄ですが、
お昼の時間とサッカーの開始時間は決して遅れないそうです。
遅れたら大変なことになりそうですね(@_@)

イワシの形をしたアズレージョ


今回も長い旅行記となってしまいました。

最後まで読んで下さって有難うございます。




2016年10月2日日曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(20)リスボン Lisboa 近郊 シントラ Sintra

6月13日、霧のロカ岬を出発してシントラに向かいました。

シントラの街も霧が降りていて幻想的な雰囲気でした。

シントラ Sintra は
リスボンの西28Km、シントラ山系にあります。

深い緑の森の中に王室を中心として貴族や富豪の別荘が点在し、
イギリスの詩人バイロンが「エデンの園」と称えました。

1995年この美しい景観が世界遺産に登録されています。

霧に包まれたシントラの街 2016.6.13 12時04分

上の写真と対面にあるのがシントラの王宮です。

王宮は1385年ジョアン1世によって王家の夏の離宮として建てられましたが、
16世紀にはマヌエル1世が増築し、装飾が加えられて豪華絢爛になり、
イスラム建築の復古もなされました。

外見はシンプルですが、中はかつてのポルトガルの栄華を垣間見ることができます。

シントラの王宮~右の円錐形の煙突がシンボルとなっています

王宮には
タイルで覆われ、水盤のあるアラブの間や
24歳の独身で戦死したため王位継承を混乱させた王「ドン・セバスチャンの間」、
ムデハル様式の礼拝堂など多くの見どころがありますが、
その中から有名な部屋をいくつかご紹介したいと思います。

王宮から見たシントラの街・・・絵のようです


まずは「白鳥の間」です。
下の写真はその天井ですが、
王冠を首に着けた27羽の白鳥がそれぞれ違ったポーズを取っています。

これは1662年、
イギリスのチャールズ2世に嫁いだ娘カタリーナのために
ジョアン4世がその幸せを願って描かせたものです。

10代で結婚することが多かった当時、
27歳で嫁ぐ娘を思う父親の気持ちが
生涯伴侶を変えない白鳥を27羽描かせることで表現されています。

白鳥の間天井画


次は「カササギの間」です。

カササギの間・・・イスラム風です

天井一面にカササギが描かれていますが、これには訳があります。

ある日、
ジョアン1世が女官と口づけをしているところを王妃に見つかり、
「深い意味はなく、善意でキスをした」と言い訳をします。
王妃は何も言わなかったそうですが、
瞬く間に女官たちの間に噂が広まってしまいます。

怒った王は女官たちをカササギ(おしゃべり鳥)に見立て、
女官と同じ数の136羽描かせ、
足元には王妃の出身地ランカスター家の紋章のバラを掴ませました。

カササギの間の天井~136羽のカササギ


王宮には厨房があり、その煙突が正面から見えますが、
中庭からは間近に見ることができます。

ムデハル様式の中庭から見る厨房の煙突


やはり私にとって一番印象に残るのが「紋章の間」です。

狩猟の様子を描いたアズレージョで囲まれた部屋のドーム型の天井には
27個の紋章が描かれており、王室や貴族のほかヴァスコ・ダ・ガマの紋章もあります。

「紋章の間」・・窓の明かりが反射してアズレージョをうまく撮ることができませんでした


「紋章の間」のアズレージョ


その他にも
緻密な細工で作られた移動式の祭壇や
様々なタイプのタイルがありました。

折りたたんで移動できる祭壇


多様なタイルの一部


王宮を出た後はシントラの街を散策しました。

シントラのお土産横丁

エッグタルトの美味しいお店があるとガイドさんに聞きましたので、
探してお店に入ると、番号札を持った人でいっぱいです。
どうやら有名なお店らしく、時間がない私達は諦めて、
次にガイドさんが連れて行ってくれたお店で買うことにしました。

エッグタルトを購入したお店

お土産用とその場で食べる分を購入。

サクサク軽い生地と甘すぎないクリームがとても美味しいです。

お土産用に包んであるエッグタルト(パステル・デ・ナタ)
~包装紙には王宮が描かれています

帰国して頂いたエッグタルト・・少しつぶれてしまいました


美味しいエッグタルトを食べた後、バスに戻り
リスボンへ帰りました。

次回は旅行記最終回となります。

リスボンでの最後の時間を過ごした
ケーブルカー乗車やファドのレストランについてお伝えしたいと思います。



2016年9月24日土曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(19)リスボン Lisboa ③と近郊・・・聖アントニオ教会、カテドラル、ロカ岬

聖アントニオ祭パレード見学の翌日6月13日は
聖アントニオ教会 Igreja de Santo Antonio に行きました。

この教会は
リスボンの守護聖人、聖アントニオ(1194-1231年)誕生の地に建てられた教会ですが、
1755年11月1日午前9時30分に起きたリスボン大地震で
主礼拝堂以外の建物が損壊して大打撃を受けました。
その後
1767年から再建が開始され、現在の教会となりました。

この日は聖アントニオ祭当日であったので
教会の周りにはお店がたくさん並び、
教会にも多くの人が来ていました。

聖アントニオ教会 2016.6.13


聖アントニオ教会の主祭壇~人でいっぱいです

聖アントニオは
イタリアのパドヴァで活躍したフランシスコ派の修道士で
縁結びの聖人としても知られています。

そのため、教会の周りには
マンジェリコという可愛い丸いハーブ(バジル)の鉢植えが
たくさん売られていました。
これはこの日、男性が思いを寄せる女性に贈るものだそうです。

可愛いマンジェリコの鉢

次に、
聖アントニオ教会の後ろにあるカテドラルに行きましたが、
通りは前夜のアントニア祭の名残りのゴミが残っており
清掃車が順次片付けていましたが、かなり賑やかだった様子が想像できました。

カテドラルは
1147年、イスラム礼拝堂跡にアフォンソ・エンリケスの命により建てられたものですが、
やはり大地震で主礼拝堂が崩壊し、
礼拝堂と回廊の多くが地震とそれに引き続く大火で廃墟となりました。

部分的に再建され大掛かりな改修の後、20世紀初頭に現在の姿となりましたが、
ロマネスク様式、ゴシック様式、バロック様式などが時代時代に加えられています。

リスボンのカテドラル

カテドラルの身廊

カテドラルの主祭壇

カテドラルの近くにアルファマ地区がありますが、
そこはリスボンの下町と呼ばれている所です。

この地区はリスボン大地震の被害をあまり受けませんでしたので、
大地震以前の迷路のような路地や白壁の街並みなど
イスラムの影響を感じさせる建物が多く残っています。

アルファマ地区の通り

アルファマ地区のアズレージョ

アルファマ地区を少し歩いた後、
バスに乗ってロカ岬に向かいました。

岬への坂道を上っている時は晴れていて遠くの海もよく見えていましたが、
上に行くに従い霧が出てきて
岬に到着した時は、ご覧のような霧の中。

ロカ岬・・・北緯38度47分、西経9時30分  2016年6月13日 午前10時50分

岬から見渡せるはずの大西洋どころか、
海と岬の境も分かりません・・・

折角ですので、
高さ140mの断崖の上にある有名な石碑の下で記念写真を撮って来ました。

石碑には
ポルトガルの詩人カモンイスの詩の一部、
「ここに地果て、海始まる」が刻まれています。

ユーラシア大陸西端のロカ岬から大西洋を望んだ景色を詠ったものです。

そう言われてもこの霧では全く実感が湧きません。
今回の旅行で一番がっかりした所ですが、天候なので仕方ありません。

カモンイスの詩を刻んだ石碑

濃霧の中、可愛らしい花が沢山咲いていました。

ロカ岬に咲く花・・シヨラオという名前?

ここで発行される到達証明書をこのツアーの旅行会社が受け取り、
1人1人に手渡してくれました。
12世紀の花文字で各自の氏名が記されています。

晴れていれば、この到達証明書の写真のようなロカ岬を味わえたのですが・・・

ロカ岬到達証明書


霧の中、再びバスに乗り、シントラの街に向かいました。
途中、
レンガ色の瓦屋根について現地のガイドさん(現地在住の日本人女性)が説明してくれました。

ポルトガル全体に言えることですが、
大体どの屋根も半筒状のレンガ色の瓦です。

これは国が色や素材を指定したり、規制しているわけではなく、
ポルトガルで瓦と言えば
土管のような筒状の素焼きのものしかなく、
それを縦半分に切って屋根瓦として使用しています。
修理する時もこれしかないので、自然と統一感が出るのだそうです。

また白壁が多いように見えますが、規制はなく、
ピンクやイエローの濃い色に塗っているものもありますが、
陽光が強いので、色が褪せてパステル調になり、
だんだん白っぽくなるそうです。

半筒状のレンガ色の瓦屋根・・ロカ岬を下る道沿い


次回はリスボンの西28㎞にあるシントラの街を訪れます。





2016年9月18日日曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(18)リスボン Lisboa ② ベレンの塔、発見のモニュメントと聖アントニオ祭

6月12日、ジェロニモス修道院を出た後、
ベレンの塔と発見のモニュメントに行きました。
どちらもジェロニモス修道院のすぐ近くにあるのですが、
間に線路があるためぐるっと回り道をします。

この頃リスボンでは薄紫色のジャカランダの花が咲いていました。

美しいジャカランダの並木道~リズボン 2016.6.12

テージョ川沿いに建つベレンの塔 Torre de Belem は
16世紀初めマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられました。

ヴァスコ・ダ・ガマはじめ多くの航海士たちがここから出発したそうです。

塔は
敵の襲撃を防ぐための堅牢な砦である堡塁(ほうるい)の2層の部分と
4層のタワー部分からできています。
タワーには王室の居室、食堂、国王の間などがあります。

堡塁の2階にはぐるりと放射状に砲台が備え付けられえており
テージョ川と9㎞先の大西洋に睨みを利かせています。
1階は潮の干満を利用した水牢でした。

司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と称したベレンの塔
~貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえています~

次に
ベレンの塔から東約1㎞の所にある
発見のモニュメント Padrao dos Descobrimentos に行きました。

モニュメントには左右両方に群像があり、
下の写真は正面に向かって右側(西側)の姿です。

このモニュメントは
1960年エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られました。
帆船をイメージした高さ52mの碑に海洋王国ポルトガルを支えた英雄たちが描かれています。

大海へ乗り出す船を手に先頭に立つエンリケ王子、
そのあとに天文学者、宣教師、船乗りなどが続きます。
ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、フランシスコ・ザビエルなど30数名が彫られています。

発見のモニュメント

モニュメント前の広場の地面には大理石のモザイクで世界地図が描いてあり、
ポルトガルがその国を発見した年号が記されています。
この地図は南アフリカ共和国から贈られたものだそうです。
(追記:1960年に贈呈されました)

日本が発見されたのは1541年となっていますが、
これはポルトガル人が種子島を発見した年ではなく
ポルトガル船が豊後に漂着した年です。

現地のガイドさんの話によると、
学者が調べたところ
これはこの地図を作った人の単なる間違いで、
資料には日本発見は1543年と記されており、発見の年を書くべきだったそうです。

大理石で描かれた世界地図の中の日本~発見のモニュメントの広場

その後リスボンで宿泊するホテルに行き、
夜に行われるアントニオ祭まで自由行動となりました。

リスボン市内


ホテル近くの広場

夜8時45分にホテルのロビーに集合して
聖アントニオ祭のパレードを見に行きました。

リスボンの守護神聖アントニオを讃える聖アントニオ祭は
6月12日(前夜祭)と13日に行われ、
前夜祭にはリベルダーデ通りでパレードが行われます。

予選を通過した各地の踊り子たちが9時過ぎに歩き始めました。
それぞれの地区で考えた衣装と踊りで競います。

私達が見学した少し先に審査員席があり、
そこで時間をかけて踊っていました。

アントニオ祭(前夜祭)のパレード・・・リベルダーデ通り


子供のグループもあります

10時過ぎに私達ツアー一行は帰路に着きますが、
お祭りの見どころである上手なグループの登場は12時頃になるそうですので、
私達は肝心のところは見ていないことになります。
でも翌日のスケジュールや治安のことを思えば10時に引き上げるのも仕方ありません。
お祭りの雰囲気を味わえたので充分です。

私達夫婦はアントニオ祭名物のイワシの炭火焼きを食べたいので、
添乗員さんたちと一緒にホテルに帰るツアー仲間と別れて
イワシの炭火焼きの屋台に向かいました。
私達と一緒に食べたいという女性二人も一緒に来ました。

イワシの炭火焼きの屋台・・・奥のカウンターで注文します

聖アントニオ祭は炭火でイワシを焼いて食べることから
「イワシ祭り」とも言われるそうです。

大きなイワシ・・・身が柔らかくて美味しいイワシです

塩のきいた焼きたてのイワシはとても美味しく、
私以外の3人は喉を潤すためにビールを飲んで更に満足そうでした。

イワシの炭火焼きを皆が美味しそうに食べる様子は
日本人がサンマの塩焼きを好んで食べるのと似ていて、親近感を持ちました。

夜遅くまで賑わう通り 夜10時21分


盛りだくさんの一日が終わり、
翌日はリスボン見学最後の日となります。