キューバ旅行4日目はトリニダーのホテルを出発して
サンタ・クララに行きました。約88Kmの行程です。
牧草地のほか住宅地も通りましたので、
地方の人達の家の様子や暮らしぶりが少し見えました。
トリニダーを出発して少し経った頃の様子
ホテルを出発して2時間ほどで
サンタ・クララ Santa Clara の街に入ります。
サンタ・クララの街
初めにチェ・ゲバラ霊廟と博物館に入ります。
ここに入るには厳しい規制があって、手に持つものは帽子とハンカチくらい。
カメラやバッグは持ち込めません。
パスポートやお金、クレジットカードなどの貴重品は
ポケットに膨らまないように入れるか、
袋に入れて首からぶら下げて洋服の中に入れたりして工夫します。
それ以外はバスに残して入場しました。
この霊廟は
ゲバラの没後20年を記念して革命戦争勝利の突破口となったサンタ・クララに
建てられました。
霊廟には1967年ボリビアで政府軍と戦って捕まり射殺されたゲバラの遺骨と
革命で亡くなった38人の慰霊を込めた石が安置されています。
38名のうち35名はここに埋葬され、残り3名は家族の手で祖国で埋葬されたそうです。
隣接する博物館には
ゲバラの子供のころの写真や身に着けていたものなどが展示されています。
霊廟から出た後バスに戻ってカメラを持ってきて
革命広場を見学しました。
サンタ・クララの革命広場 2016.1.27
革命広場に向かってチェ・ゲバラの銅像が立っています。
この銅像の裏側が霊廟の入り口で、銅像の真下が博物館でした。
銅像の台座には
エルネスト・チェ・ゲバラ Ernesto Che Guevara の有名な言葉
「HAST LA VICTORIA SIEMPRE」(常に勝利に向かって)
が刻まれています。
銅像の台座にはゲバラの有名な言葉が刻まれています
銅像の横にはモニュメントがあります。
ゲバラの銅像横のモニュメント
ここでキューバ革命と現在に至るまでを簡単に触れておきたいと思います。
瞬く間にアメリカ軍はキューバ全島からスペイン軍を駆逐。
1902年キューバ共和国は独立を果たし、400年に及ぶスペイン支配から解放されたが、
それはアメリカによる支配の始まりでもあった。
独立後
アメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くをアメリカ企業が支配。
そのうえ政治家の不正が重なり国民の不満が高まり、
クーデターや相次ぐ政変で不安定な状況が続く。
一時安定期を迎える時もあったが、インフレ問題などで再び社会不安が高まる。
クーデターや相次ぐ政変で不安定な状況が続く。
一時安定期を迎える時もあったが、インフレ問題などで再び社会不安が高まる。
クーデターによりバティスタの独裁政治が始まる。
アメリカの傀儡であるバティスタ政権による腐敗、弾圧、独裁が続き、
バティスタ政権、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアによって富が独占され、
その富がアメリカ本土へと流れていった。
キューバ革命成就直後のゲバラ 1959.1.2 wikipediaより
(1967年10月9日没、享年39歳)
このようなアメリカによる半植民地状態から脱するため、
1953年弁護士フィデル・カストロ Fidel Castro ら青年たちが蜂起するが失敗。
カストロは投獄されるが恩赦により出獄後、メキシコに亡命。
そこで
グアテマラ革命政権崩壊からメキシコに逃れていたアルゼンチン人医師チェ・ゲバラと知り合う。
グアテマラ革命政権崩壊からメキシコに逃れていたアルゼンチン人医師チェ・ゲバラと知り合う。
カストロはゲバラと共にキューバに上陸。
1959年1月1日
バティスタがドミニカ共和国に亡命、キューバ革命が成就。
カストロが首相に就任し、
カストロが首相に就任し、
革命直後はアメリカとも友好関係を維持しようとしてアメリカを訪問するが、
カストロが共産主義者であるとのCIAの疑い(本人は明確に否定)や
キューバに多くの利権を持っていたアメリカ企業やマフィアからの圧力により、
アイゼンハワー大統領はカストロ政権の承認を拒否。
アメリカ訪問時のフィデル・カストロ 1959.4 wikipediaより
これに反発したカストロはキューバにおける米国資産の国有化を開始すると共にソ連に接近。
1961年4月ピッグス湾事件となったが、失敗に終わる。
この後もアメリカ政府はカストロ政権打倒を目指したため
カストロはソ連に軍事的支援を求める。
カストロが共産主義者であるとのCIAの疑い(本人は明確に否定)や
キューバに多くの利権を持っていたアメリカ企業やマフィアからの圧力により、
アイゼンハワー大統領はカストロ政権の承認を拒否。
アメリカ訪問時のフィデル・カストロ 1959.4 wikipediaより
これに反発したカストロはキューバにおける米国資産の国有化を開始すると共にソ連に接近。
アメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、社会主義国の建設を推進。
その間、上中流階級の大多数がアメリカなどへ亡命した。
1960年3月
アイゼンハワー大統領はカストロ政権の転覆計画を秘密裏に開始。
1961年1月
アメリカはキューバとの外交を断絶。
カストロ政権転覆計画はジョン・F・ケネディ大統領に引き継がれ、1960年3月
アイゼンハワー大統領はカストロ政権の転覆計画を秘密裏に開始。
1961年1月
アメリカはキューバとの外交を断絶。
1961年4月ピッグス湾事件となったが、失敗に終わる。
この後もアメリカ政府はカストロ政権打倒を目指したため
カストロはソ連に軍事的支援を求める。
1962年2月
ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止、
キューバの経済封鎖を行うと発表。
同年
キューバにソ連のミサイル基地建設とミサイル搬入が明らかになり
核戦争の危機となるが米ソの妥協で回避(キューバ危機)。
ウィーン会談中のケネディ大統領とソ連のフルシチョフ第一書記 1961
~wikipediaより
1991年ソ連が崩壊すると
事実上ソ連の支援を受けていたキューバの経済は大打撃を受ける。
かつてないほどの経済的衰退を受けて政府は私的所有や国営企業の民営化など
経済競争面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再興を図る。
このような政策は功を奏し、フィデル・カストロ政権は1990年代の最も困難な時期を乗り切る。
反面、土地の私的所有や宗教信仰の自由を認めるなど
各種の自由化が進む。
2008年
フィデル・カストロは健康上の理由で国家評議会議長などの役職を退任、
後任に弟のラウル・カストロが選任される。
(フィデル・カストロは2015年8月現在89歳)
2013年からカナダやローマ教皇フランシスコの仲介により
アメリカと国交回復に向けて舞台裏で交渉を開始。
2015年7月20日、
54年ぶりにアメリカと国交回復。
ラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ大統領の首脳会談 2015年4月
~wikipediaより
アメリカと国交回復に向けて舞台裏で交渉を開始。
2015年7月20日、
54年ぶりにアメリカと国交回復。
ラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ大統領の首脳会談 2015年4月
~wikipediaより
キューバ危機は私が小学生の時の事件でしたので覚えています。
本当に核戦争が起きるのか、子供心に恐怖でした。
まさか、そのキューバを旅行するようになるとは・・・
◇◆◇
さて次回は
大西洋のリゾート、バラデロです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。