セビーリャから飛行機で約1時間半飛び、バルセロナに到着しました。
まだ昼間のように明るい夕方、街のレストランで食事をしてからホテルへ。
翌日バルセロナ見物が始まりました。
バルセロナBarcelonaは、カタルーニャ地方の州都で、
人口約170万人、スペイン第2の都市です。
スペインには地方ごとに国があると言われますが、
9世紀イベリア半島はイスラム教徒に大半を支配されていましたが、
カタルーニャはゲルマン系のフランク王国辺境領に組み入れられ、
その後986年バルセロナ伯国として独立。
中世ヨーロッパの影響を受けながら、
イスラムの進んだ文化を取り入れたカタルーニャは、
勢力を地中海に拡大し、約400年にわたり黄金期を迎えます。
しかし、その後スペイン統一によって衰退、
20世紀のフランコ独裁時代には
固有の言語と文化を禁止・弾圧されます。
フランコ死後の1977年念願の自治権を獲得し、
カスティーリャ語(スペイン語)と並んで
カタルーニャ語を公用語として復活させました。
カタルーニャ人気質は勤勉・質素で、
一番スペイン人らしくないと言われます。
また昨年からこの地方は動物愛護の観点から闘牛を禁止。
既にショッピングモールに変わった闘牛場もありました。
中世ヨーロッパの影響を受けながら、
イスラムの進んだ文化を取り入れたカタルーニャは、
勢力を地中海に拡大し、約400年にわたり黄金期を迎えます。
しかし、その後スペイン統一によって衰退、
20世紀のフランコ独裁時代には
固有の言語と文化を禁止・弾圧されます。
フランコ死後の1977年念願の自治権を獲得し、
カスティーリャ語(スペイン語)と並んで
カタルーニャ語を公用語として復活させました。
カタルーニャ人気質は勤勉・質素で、
一番スペイン人らしくないと言われます。
また昨年からこの地方は動物愛護の観点から闘牛を禁止。
既にショッピングモールに変わった闘牛場もありました。
そんなカタルーニャ地方のバルセロナでまず思い浮かべるのは
アントニ・ガウディ(1852-1926年)の作品群でしょう。
アントニ・ガウディ(1852-1926年)の作品群でしょう。
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)を訪れました。
写真や映像では何度も目にしている教会ですが、
実際に見てみると、大きく迫力があり、
130年前に着工したとはいえ、今も建築中の教会は若々しく、
不思議な感じです。
完成は約15年後のようですが、その時また見に行きたいですね。
サン・ホセ帰依者教会の本堂として1882年に着工されたサグラダ・ファミリア。
翌1883年に初代建築家ビリャールからガウディに引き継がれ、
ガウディは後半生の全てをこの教会の建築に費やします。
教会傍の小屋で生活し、小屋と教会の往復の毎日でした。
斬新な現代的彫刻で、
面取りしたような形の群像の中、キリストのお尻も三角形です。
それであまり評判は良くないそうですが、
私は好きな彫刻でした。
このサグラダ・ファミリア自体、初めは奇妙な建物と周囲には思われていましたが、
今の評価はご存知の通りです。
この彫刻も50年後、100年後にはどういう評価を受けるかわかりません。
楽しみです。
このサグラダ・ファミリアの建設に生活のすべてを捧げたガウディは、
1926年6月7日市電にはねられた時、
あまりにもみすぼらしい身なりに
その老人が高名な建築家ガウディだと気付く人はいませんでした。
3日後にガウディは息を引き取りますが、
その葬儀には彼の才能を愛した多くの市民が参列しました。
次に同じガウディの作品であるグエル公園へ。
ガウディの生涯のパトロンとなるエウセビ・グエルが
イギリス風の静かな住宅街をバルセロナに作ろうと考え、
150,000㎡の土地の設計をガウディに依頼。
ガウディは中央広場、道路、門衛館、管理事務所などを設計しました。
1900年から1914年の間は建造が進みましたが、
グエル伯爵没後工事は中断され、市の公園として寄付されました。
1900年から1914年の間は建造が進みましたが、
グエル伯爵没後工事は中断され、市の公園として寄付されました。
有名なモザイクの椅子のある中央広場は下の写真のように高台になっており、
下の柱が並んでいる所の天井にもガウディらしいモザイクがあります。
当初60戸の住宅建築が予定されていましたが、買い手がつかず、
グエル伯爵とガウディだけが購入し、その2軒のみ完成しました。
ガウディは一時その家に住んでいましたが、サグラダ・ファミリア建設に没頭するため、
教会傍の小屋に引っ越してしまいました。
現在、彼の住んだ家は博物館となっています。
これもお馴染のトカゲの噴水のモザイク。
次に行ったのはカタルーニャ音楽堂です。
これは20世紀初頭のバルセロナでガウディ以上に名声を博した天才建築家、
ドメネク・イ・モンタネールの最高傑作です。
現在もコンサートホールとして使用されています。
私達は外観を見ただけでしたが、
ツアーのお仲間の4人が夜ここのコンサートに行きました。
色鮮やかなステンドグラスやシャンデリア等の内装がとても素敵だったそうです。
これは20世紀初頭のバルセロナでガウディ以上に名声を博した天才建築家、
ドメネク・イ・モンタネールの最高傑作です。
現在もコンサートホールとして使用されています。
私達は外観を見ただけでしたが、
ツアーのお仲間の4人が夜ここのコンサートに行きました。
色鮮やかなステンドグラスやシャンデリア等の内装がとても素敵だったそうです。
カサ・ミラとカサ・バトリョはバスの中から見ただけで、
ピカソ美術館へ。
ここには
ピカソの初期と晩年の作品が展示されています。
ピカソの父は絵の教師で息子を宮廷画家にしたいと思っていました。
父の指導のもと、ピカソは古典的な様式の絵を描き、才能を発揮して賞を獲得、
マドリッドの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学します。
しかし学校で学ぶ無意味さを悟り中退、
プラド美術館に通い名画の模写をして絵の道を模索します。
その後バルセロナに戻り、若い芸術家と交わりながら熱心に絵を描いていきました。
ピカソの父親は息子が自分を超えた絵を描いた時、
息子を宮廷画家にしたいという夢を捨てたそうです。
ピカソ美術館では
子供ながらアカデミックな技法を完全にマスターしてしまった初期の作品や
晩年の「鳩」の連作などが目を惹きました。
次はバルセロナ郊外の聖地モンセラットです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。