2016年9月24日土曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(19)リスボン Lisboa ③と近郊・・・聖アントニオ教会、カテドラル、ロカ岬

聖アントニオ祭パレード見学の翌日6月13日は
聖アントニオ教会 Igreja de Santo Antonio に行きました。

この教会は
リスボンの守護聖人、聖アントニオ(1194-1231年)誕生の地に建てられた教会ですが、
1755年11月1日午前9時30分に起きたリスボン大地震で
主礼拝堂以外の建物が損壊して大打撃を受けました。
その後
1767年から再建が開始され、現在の教会となりました。

この日は聖アントニオ祭当日であったので
教会の周りにはお店がたくさん並び、
教会にも多くの人が来ていました。

聖アントニオ教会 2016.6.13


聖アントニオ教会の主祭壇~人でいっぱいです

聖アントニオは
イタリアのパドヴァで活躍したフランシスコ派の修道士で
縁結びの聖人としても知られています。

そのため、教会の周りには
マンジェリコという可愛い丸いハーブ(バジル)の鉢植えが
たくさん売られていました。
これはこの日、男性が思いを寄せる女性に贈るものだそうです。

可愛いマンジェリコの鉢

次に、
聖アントニオ教会の後ろにあるカテドラルに行きましたが、
通りは前夜のアントニア祭の名残りのゴミが残っており
清掃車が順次片付けていましたが、かなり賑やかだった様子が想像できました。

カテドラルは
1147年、イスラム礼拝堂跡にアフォンソ・エンリケスの命により建てられたものですが、
やはり大地震で主礼拝堂が崩壊し、
礼拝堂と回廊の多くが地震とそれに引き続く大火で廃墟となりました。

部分的に再建され大掛かりな改修の後、20世紀初頭に現在の姿となりましたが、
ロマネスク様式、ゴシック様式、バロック様式などが時代時代に加えられています。

リスボンのカテドラル

カテドラルの身廊

カテドラルの主祭壇

カテドラルの近くにアルファマ地区がありますが、
そこはリスボンの下町と呼ばれている所です。

この地区はリスボン大地震の被害をあまり受けませんでしたので、
大地震以前の迷路のような路地や白壁の街並みなど
イスラムの影響を感じさせる建物が多く残っています。

アルファマ地区の通り

アルファマ地区のアズレージョ

アルファマ地区を少し歩いた後、
バスに乗ってロカ岬に向かいました。

岬への坂道を上っている時は晴れていて遠くの海もよく見えていましたが、
上に行くに従い霧が出てきて
岬に到着した時は、ご覧のような霧の中。

ロカ岬・・・北緯38度47分、西経9時30分  2016年6月13日 午前10時50分

岬から見渡せるはずの大西洋どころか、
海と岬の境も分かりません・・・

折角ですので、
高さ140mの断崖の上にある有名な石碑の下で記念写真を撮って来ました。

石碑には
ポルトガルの詩人カモンイスの詩の一部、
「ここに地果て、海始まる」が刻まれています。

ユーラシア大陸西端のロカ岬から大西洋を望んだ景色を詠ったものです。

そう言われてもこの霧では全く実感が湧きません。
今回の旅行で一番がっかりした所ですが、天候なので仕方ありません。

カモンイスの詩を刻んだ石碑

濃霧の中、可愛らしい花が沢山咲いていました。

ロカ岬に咲く花・・シヨラオという名前?

ここで発行される到達証明書をこのツアーの旅行会社が受け取り、
1人1人に手渡してくれました。
12世紀の花文字で各自の氏名が記されています。

晴れていれば、この到達証明書の写真のようなロカ岬を味わえたのですが・・・

ロカ岬到達証明書


霧の中、再びバスに乗り、シントラの街に向かいました。
途中、
レンガ色の瓦屋根について現地のガイドさん(現地在住の日本人女性)が説明してくれました。

ポルトガル全体に言えることですが、
大体どの屋根も半筒状のレンガ色の瓦です。

これは国が色や素材を指定したり、規制しているわけではなく、
ポルトガルで瓦と言えば
土管のような筒状の素焼きのものしかなく、
それを縦半分に切って屋根瓦として使用しています。
修理する時もこれしかないので、自然と統一感が出るのだそうです。

また白壁が多いように見えますが、規制はなく、
ピンクやイエローの濃い色に塗っているものもありますが、
陽光が強いので、色が褪せてパステル調になり、
だんだん白っぽくなるそうです。

半筒状のレンガ色の瓦屋根・・ロカ岬を下る道沿い


次回はリスボンの西28㎞にあるシントラの街を訪れます。





2016年9月18日日曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(18)リスボン Lisboa ② ベレンの塔、発見のモニュメントと聖アントニオ祭

6月12日、ジェロニモス修道院を出た後、
ベレンの塔と発見のモニュメントに行きました。
どちらもジェロニモス修道院のすぐ近くにあるのですが、
間に線路があるためぐるっと回り道をします。

この頃リスボンでは薄紫色のジャカランダの花が咲いていました。

美しいジャカランダの並木道~リズボン 2016.6.12

テージョ川沿いに建つベレンの塔 Torre de Belem は
16世紀初めマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられました。

ヴァスコ・ダ・ガマはじめ多くの航海士たちがここから出発したそうです。

塔は
敵の襲撃を防ぐための堅牢な砦である堡塁(ほうるい)の2層の部分と
4層のタワー部分からできています。
タワーには王室の居室、食堂、国王の間などがあります。

堡塁の2階にはぐるりと放射状に砲台が備え付けられえており
テージョ川と9㎞先の大西洋に睨みを利かせています。
1階は潮の干満を利用した水牢でした。

司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と称したベレンの塔
~貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえています~

次に
ベレンの塔から東約1㎞の所にある
発見のモニュメント Padrao dos Descobrimentos に行きました。

モニュメントには左右両方に群像があり、
下の写真は正面に向かって右側(西側)の姿です。

このモニュメントは
1960年エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られました。
帆船をイメージした高さ52mの碑に海洋王国ポルトガルを支えた英雄たちが描かれています。

大海へ乗り出す船を手に先頭に立つエンリケ王子、
そのあとに天文学者、宣教師、船乗りなどが続きます。
ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、フランシスコ・ザビエルなど30数名が彫られています。

発見のモニュメント

モニュメント前の広場の地面には大理石のモザイクで世界地図が描いてあり、
ポルトガルがその国を発見した年号が記されています。
この地図は南アフリカ共和国から贈られたものだそうです。
(追記:1960年に贈呈されました)

日本が発見されたのは1541年となっていますが、
これはポルトガル人が種子島を発見した年ではなく
ポルトガル船が豊後に漂着した年です。

現地のガイドさんの話によると、
学者が調べたところ
これはこの地図を作った人の単なる間違いで、
資料には日本発見は1543年と記されており、発見の年を書くべきだったそうです。

大理石で描かれた世界地図の中の日本~発見のモニュメントの広場

その後リスボンで宿泊するホテルに行き、
夜に行われるアントニオ祭まで自由行動となりました。

リスボン市内


ホテル近くの広場

夜8時45分にホテルのロビーに集合して
聖アントニオ祭のパレードを見に行きました。

リスボンの守護神聖アントニオを讃える聖アントニオ祭は
6月12日(前夜祭)と13日に行われ、
前夜祭にはリベルダーデ通りでパレードが行われます。

予選を通過した各地の踊り子たちが9時過ぎに歩き始めました。
それぞれの地区で考えた衣装と踊りで競います。

私達が見学した少し先に審査員席があり、
そこで時間をかけて踊っていました。

アントニオ祭(前夜祭)のパレード・・・リベルダーデ通り


子供のグループもあります

10時過ぎに私達ツアー一行は帰路に着きますが、
お祭りの見どころである上手なグループの登場は12時頃になるそうですので、
私達は肝心のところは見ていないことになります。
でも翌日のスケジュールや治安のことを思えば10時に引き上げるのも仕方ありません。
お祭りの雰囲気を味わえたので充分です。

私達夫婦はアントニオ祭名物のイワシの炭火焼きを食べたいので、
添乗員さんたちと一緒にホテルに帰るツアー仲間と別れて
イワシの炭火焼きの屋台に向かいました。
私達と一緒に食べたいという女性二人も一緒に来ました。

イワシの炭火焼きの屋台・・・奥のカウンターで注文します

聖アントニオ祭は炭火でイワシを焼いて食べることから
「イワシ祭り」とも言われるそうです。

大きなイワシ・・・身が柔らかくて美味しいイワシです

塩のきいた焼きたてのイワシはとても美味しく、
私以外の3人は喉を潤すためにビールを飲んで更に満足そうでした。

イワシの炭火焼きを皆が美味しそうに食べる様子は
日本人がサンマの塩焼きを好んで食べるのと似ていて、親近感を持ちました。

夜遅くまで賑わう通り 夜10時21分


盛りだくさんの一日が終わり、
翌日はリスボン見学最後の日となります。



2016年9月9日金曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(17)リスボン Lisboa ①ジェロニモス修道院

6月12日オビドスでの遅い昼食後、バスでリスボンに向かいました。
1時間ほどでリスボン Lisboa に到着。

リスボン 2016.6.12

ジェロニモス修道院に向かう途中、
テージョ川に架かる4月25日橋の向こうに大きなキリスト像クリスト・レイが見えました。
これはリオのオリンピックで見慣れたリオ・デ・ジャネイロのキリスト像を模して作られたものです。
1959年に完成しましたが、リオのものより少し小さいそうです。

4月25日橋というのは
かつての独裁者の名を冠したサラザール橋のことで、
1974年4月25日革新派軍人によるクーデターで新政府が誕生した際、
4月25日橋と名前を変えました。

4月25日橋の向こうに見えるクリスト・レイ

ジェロニモス修道院 Mosteiro dos Jeronimos は
大西洋に注ぐテージョ川沿いにあるベレンの塔、発見のモニュメントと
道路や線路を挟んだ向かい側にあります。

線路と道路を隔てて見た巨大なジェロニモス修道院の一部

16世紀のポルトガルの栄光を伝えるジェロニモス修道院。
この白亜の大修道院はマヌエル1世が1502年に着工し、
中断した時期を含め300年の年月をかけて19世紀に完成しました。
その完成度の高さからポルトガル建築の最高峰と讃えられ、
ベレンの塔と共に1983年世界遺産に登録されました。

ポルトガル独特のマヌエル様式を代表する壮麗な建物は
ヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た莫大な富で建てられたものであり、
ポルトガルの大航海時代の栄華を反映させたものです。

壮麗なジェロニモス修道院

修道院内へは聖母マリアに捧げられた南門から入りました。

修道院南門

美しい回廊が有名なジェロニモス修道院ですが、
マヌエル様式独特の貝殻やロープ、錨、船、天球儀など海や船に関するものや
インドや南米の植物などが柱や天井に彫られています。

美しい回廊~ジェロニモス修道院

もともと王家の霊廟は バターリャ修道院 だったのですが、
ジェロニモス修道院が出来てからはこちらに移されました。

ロープの彫刻等マヌエル様式の特徴があちこちに見られる回廊


後期ゴシック、ルネサンス、イスラム建築の要素を取り入れたマヌエル様式の中庭と回廊
~四分割された庭や繊細な装飾にイスラムの影響を見ることができる

修道院内のサンタ・マリア教会の柱はヤシの木を象ってデザインされたそうです。
柱には細かい模様の彫刻があります。

ジェロニモス修道院内のサンタ・マリア教会 身廊


サンタ・マリア教会の祭壇



聖母子のステンドグラス

ヴァスコ・ダ・ガマの棺も安置されています。
棺にはマヌエル様式の彫刻が沢山施されています。

ヴァスコ・ダ・ガマの棺

かつて食堂だった部屋にはジェロニモスを描いた絵があります。

かつて食堂だった部屋

ジェロニモス=聖ヒエロニムスは4世紀に聖書をラテン語訳した聖職者ですが、
ライオンとのエピソードがあり、多くの絵画に取り上げられています。
ジェロニモス修道院の絵にもライオンが一緒に描かれていました。

中世で良く知られていたというその聖者伝説とは・・

『ある夕方ヒエロニムスが修道士たちと聖書の勉強をしていると
足を引きずったライオンが部屋に入って来ました。
驚いた修道士たちは逃げ出しますが、
ヒエロニムスは客人を迎えるように優しくライオンに近づきます。
ライオンの足には茨のとげが刺さっていましたので、
ヒエロニムスはとげを抜いて手当をしてあげました。
その後ライオンは生涯ヒエロニムスに付き従ったということです。』

ライオン(手前)を従えたジェロニモスの絵


食堂だった部屋のアズレージョ

ジェロニモス修道院は大きすぎて全体の写真が撮れなくて残念でした。

それで wikipedia に載っている写真をご紹介します。

wikipediaのジェロニモス修道院全体像


次回は
ジェロニモス修道院からほど近い
ベレンの塔と発見のモニュメント、
そして夜に行われたアントニア祭についてです。




2016年9月3日土曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(16)オビドス Obidos

6月12日、バターリャ修道院を後にしてオビドスに向かいました。

リスボンから北へ80㎞のほどの所にあるオビドス Obidos は
城壁に囲まれたとても小さな町で、人口は約600人くらいです。
その小さな町に観光客が沢山来ていました。

外から見た城壁 2016.6.12

オビドスは
ローマ時代に海からの敵の侵入を防ぐための砦が築かれたことから
その歴史が始まります。

その後、イスラム教徒による支配が始まりますが、
1148年アフォンソ・エンリケスによりムーア人から解放されると、町の再建が行われました。


そして
1282年、ディニス王は
オビドスを訪問してすっかり魅了されてしまった王妃イザベルに
この町をプレゼントします。
それ以降
1834年までオビドスは代々の王妃の直轄地となり、
今なお中世の姿を残しています。


この小さな町への入り口は
イスラム時代に造られたポルタ・ダ・ヴィラ Porta da Vila です。
敵の侵入を防ぐために二重のジグザグ構造になっており、
アーチ型の通路の内側は18世紀のアズレージョで覆われています。

ポルタ・ダ・ヴィラのアズレージョ

町の中は
白壁にブルーとイエローのラインが印象的です。
この2色は町の旗に使われているそうですが、
特にブルーがとても良く似合う町でした。

ポルタ・ダ・ヴィラを通ってメインストリートへ


細いメインストリートの両脇にはお土産屋やレストランが続きます。

メインストリート


赤いブーゲンビリアが白い壁に映えます


メインストリートから横に入った路地も風情があります。

狭い路地にも花が咲いています


細々としたものを売っています~メインストリート

その町並みは
スペインの「白い村」ミハスを小さくした感じです。

オビドスの名物はジンジャ Ginja というサクランボを漬け込んだ果実酒です。
チョコレートの名産地でもあるので、
チョコレートの小さなカップにジンジャを入れて飲みます。
夫が飲みましたが、なかなか美味だとのこと。

お土産に小さなボトルを買ってきました。

店頭に並ぶジンジャ・・右のお皿の上にあるチョコのカップに入れて飲みます


サンタ・マリア広場にサンタ・マリア教会がありました。
1444年、ここで10歳のアフォンソ5世が、
わずか8歳のいとこのイザベラと結婚式を挙げました。

サンタ・マリア教会

サンタ・マリア広場にはペロリーニョが建っています。
これは「罪人のさらし柱」というもので、
見せしめのために罪人を籠に入れてこの柱に吊り下げたそうです。

左端の柱がペロリーニョ

そしてオビドス城を改装したポザーダ・ド・カステロ Pousada do Castelo (ホテル)もあります。

ポザーダ・ド・カステロ 

夫と私は
メインストリートの突き当りから城壁に上って町を眺めましたが、
高い城壁の上は
狭い通路で、しかも両方の壁の隙間から風が吹いてくるので怖くなり、
しばらく歩いた後、途中で降りてきました。

ギザギザの隙間から吹く風に煽られそうで怖かった城壁


でも眺めはとても良かったです。

ツアーの他の方たちは添乗員さんに連れられて入り口近くの城壁に上ったそうですが、
そこは広くて景色もよく見え、歩き廻らず降りてきたので少しも怖くなかったそうです。

城壁から見た景色

城壁の外には水道橋がありました。

水道橋

オビドスは
「谷間の真珠」と呼ばれるのにふさわしい白く輝く可愛らしい小さな町でした。

次回はこの旅の最終訪問地リスボンです。