2012年6月23日土曜日

スペイン旅行(4)マドリッドMadrid ③国立ソフィア王妃芸術センター

プラド美術館の後は国立ソフィア王妃芸術センターへ。

建物は歴史的建造物として文化財に指定された
かつてのサン・カルロス病院で、
1980年から改修工事が始まり、1986年にオープン。
正面入り口にある2基のガラス張りのエレベーターが目をひきます。
下の写真は左側に少し見える建物が芸術センターで、
エレベーターの中から
もう1基のエレベーター方面を撮ったものです。

国立ソフィア王妃芸術センター(Madrid) 2012.6.1 by Poran111

建物は元病院だけあって、廊下などにその雰囲気が残っています。
国立ソフィア王妃芸術センター内の廊下  by Poran111

所蔵作品は現代美術館が所蔵していたコレクションをベースに、
スペインの近代及び現代美術を中心に集められています。
その中でダリ、ミロ、ピカソなどを鑑賞。

中でも圧巻は
パブロ・ピカソ(1881-1973年)の「ゲルニカ」でしょう。
写真や映像では何度も見ていますが、
実物を見るのは勿論初めてです。
思ったより大きいものでした(横776㎝、縦349㎝)。

「ゲルニカ」ポストカード by Poran111

当時スペインは
左派の人民戦線政府とフランコ将軍率いる右派の反乱軍が争っていました。
スペイン内戦です(1936年7月ー1939年3月)。
フランコはファシズム陣営のドイツ・イタリアに支援を要請。

1937年4月26日、
スペイン北部バスク地方の小さな町ゲルニカでは
市が立っていました。
戦時中で物資が乏しいことから近隣の町からも
買い出しに来ていた人が多かったそうです。
そこに集まったのは戦地に駆り出されない老人、女、子供ばかりです。

その人々の集まりを
フランコから要請を受けたドイツ軍が空爆したのです。
多数の死傷者を出した無差別攻撃でした。
ゲルニカは前線に通じる鉄道、道路など交通の要であり、
同市を破壊する事で政府軍の補給を妨害する事が目的だったといわれています。

当時ピカソはプラド美術館館長として
パリ万博スペイン館の準備を任され、パリに滞在していました。

パリのホテルの新聞でこの惨事を知ったピカソは、
予定していた壁画のテーマをを変更して
短時間(1ヶ月弱)でモノクロームのゲルニカを描きあげます。

子供を抱いて泣き叫ぶ女性、いななく軍馬、倒れる兵士、
兵士の折れた軍刀、天に救いを求める人、火の灯るランプ・・・

様々な解釈がなされますが、
作者の意図、テーマは何か、と問われたピカソは、
戦争への怒りや人権尊重などの言葉は一切出さず、
「この絵を見た一人ひとりが感じ取ったもの、それがテーマです」
と答えたそうです。

フランコ将軍率いる反乱軍が勝利して終結したスペイン内戦。
ゲルニカは
パリ万博の後ロンドンなどを巡回したのち
ニューヨーク近代美術館に預けられます。

ピカソは
「スペインに本当の自由が戻ったらプラド美術館に飾って欲しい」
と言って、
フランコ政権下ではこの絵がスペインに戻ることを拒否していました。

1973年ピカソ死去、1975年にフランコ将軍が没し、
政治体制が変わったスペインとニューヨーク近代美術館の間で
ゲルニカの返還交渉が始まります。
スペインが王政復古し民主化が進んだ1981年になって
ようやく母国に返還され、
現在ソフィア王妃芸術センターに展示されるようになりました。

当初、絵の両側には銃を持った兵士が警護していたそうです。
今は女性が絵の傍に座り、
絵の手前の線を越えるとアラームが鳴るようになっています。

このような厳重な警護をしているところを見ると
ルーブルのモナリザのように門外不出の作品なのでしょう・・・

私達がゲルニカの前にいる時、
先生に連れられた小学生たちが集まって来ました。
きっとゲルニカが描かれたいきさつやスペイン内戦の歴史を学んで、
戦争の悲惨さを感じとっていくことでしょう。

国立ソフィア王妃芸術センター前のオブジェ by Poran111
パリ万博に出展されたオブジェ (国立ソフィア王妃芸術センター前)



2 件のコメント:

  1. charanさん
    ゲルニカはNYで観たことがありました。

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  2. Kappaさん、
    そうなんですか・・・早くから実物を鑑賞されていたんですね。
    きっとゲルニカは門外不出だと思いますので、私も今回観ることが出来て良かったです。

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