2016年7月22日金曜日

北スペイン・ポルトガル旅行記(9)ポルト Porto ② ガイア地区

6月11日朝8時30分にポルトのホテルを出発して
ドウロ川を挟んで旧市街の対岸にあるヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア(ガイア地区)に行きました。

ここの小高い丘にノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院 Mosteiro da N. Sr. do Pilar があり、
その展望台から美しい旧市街の街並みが一望できます。
旧市街は1996年「ポルト歴史地区」として世界遺産に登録されています。

ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院 2016.6.11 朝8時57分

修道院のすぐ下にドン・ルイス1世橋が架かっていますが、
この橋は19世紀に設置された2階建て構造の鉄橋で
1階は車道と歩道、2階は鉄道と歩道となっています。
この橋はエッフェル塔を造ったエッフェルの弟子が設計しました。


修道院の展望台から見た旧市街(右上)、ドウロ川、
手前のドン・ルイス1世橋を走るのはメトロ

ポルトと言えば、ポートワインですが、
ポートワインが出来た経緯をポルトの歴史と共に書いてみたいと思います。

◆ 

ローマ帝国時代、
ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアはカレ Cale と呼ばれる洲であり、
ドウロ川の河口の街が港 Portus の役割をもっていたことから、
ポルトゥス・カレと呼ばれ、それがポルトガルの語源となった。
当時からポルトは港町として栄えていた。

15世紀まで世界の中心は地中海であり、大西洋に面したポルトガルは
地中海貿易から取り残されたヨーロッパの辺境にすぎなかった。

15世紀初頭、
イスラム教徒に支配されていたイベリア半島(スペイン、ポルトガル)では
キリスト教諸国によるレコンキスタ(国土回復運動)が進んでいたが、
北アフリカのイスラム勢力が
ジブラルタル海峡を通じてイベリア半島のイスラム諸国を援助していたため、
なかなか打ち破ることができなかった。

Wikipediaより・・・中央下赤い小さい部分がセウタ

そこでポルトガル国王ジョアン1世とその息子エンリケは
拠店都市であり、造船基地でもあったポルトで大船団を組織し、
北アフリカとイベリア半島のイスラム勢力を分断するために
1415年、北アフリカのセウタを攻略。
(セウタはモロッコの一部で、現在スペインの飛地領)

アフリカに渡ったエンリケは海外進出を加速し、
地中海貿易をあきらめた代わりに大西洋へと漕ぎ出し、
アジア・アフリカ進出を開始。
1488年バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達。
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達し、ポルトガルはインド航路を独占した。

アジアから直接運ばれた香辛料がポルトガルに莫大な富をもたらし、
夢の大航海時代へと突入する。

旧市街の対岸にあるポートワイン工場(左側オレンジの屋根の建物)
昔は目の前のドウロ川に停泊している船で出荷していた

こうした航海を支えたのがワイン。
外洋航海に水は欠かせないが、熱帯地方の場合、水は1か月ほどで腐り、
そのために水の代わりにアルコール飲料を持ち込み、
水→ビール→ワインというように
アルコール度数の低い順に消費したが、ワインもせいぜいもって3か月。
アルコール度数の高いブランデーは腐らないが水の代わりに飲むわけにもいかず、
ワインにブランデーを入れた酒精強化ワインを積み込んでいった。

17世紀にポルトの酒精強化ワイン=ポートワインがイギリスで大ヒットすると
ポルトガルの主要輸出品に成長し、
のちに大航海時代の勢いが衰えたポルトガルの財政を支えた。

ポートワイン 2016.6.10 ポルトのホテルの夕食にて


以上がポートワインが生まれたいきさつです。


次回は

世界で最も美しい本屋の一つと言われる書店「レロ・イ・イルマオン」です。



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